特別講演
特別講演
バナナの皮から慮る科学技術の方向性
馬渕 清資 (北里大学名誉教授)
一昨年,イグノーベル賞という若干怪しいところのある賞をいただきました.実は,バナナの皮で滑るのは,世界共通のギャグネタですから,論文が上梓された時点で,受賞を確信していました.しかし,公的な研究機関に身を置く者として,バナナの皮で遊んでいるという風評をいただくわけにはいかないので,ハーバード大学で行われた受賞式を含めて,いかにして,自分の立ち位置を皆さんに知ってもらうかを真剣に考えました.
受賞後,加熱した取材の中で「バナナの皮の滑りの研究成果は,何の役に立ちますか」という質問を多くの方からいただきました.実用性のない研究に対しては,私自身,日頃は批判的な意見を述べておりますので,これが,非常に厳しかった.それで,用意した回答は,バナナの皮の滑りをよくする仕組みの主体である粘液の効果は,生体関節と共通である.そのことは,人工関節に流体潤滑を構築する必要性を裏付けたという点で,役に立つ.というものでした.
一方,「科学は,研究テーマが面白ければ,価値がある.その意味で,バナナの皮の滑りという日常のありふれたことがらの中から,摩擦係数を測定するという新しい発見をしたことは,科学する姿勢として評価できる」という好意的な意見もいただきました.私自身,バナナの皮の滑りと生体関節の潤滑というかけ離れた二つの現象に,共通の仕組みが隠されているということを知ったとき,これは面白いと感じていました.そして,バナナの皮と関節,一見かけ離れた両者は,生命という枠の中にあること,そして,粘液の成分である高分子物質は,生命体の遺伝子にしか生み出せない物質であることに思い至りました.
粘性のある液体は,潤滑油などの工業用材料も含めて,すべて高分子物質であり有機物です.そして,有機物の合成は,生命にのみ可能な技です.その延長で,科学技術には,物質を創生する力がないという,いわば,科学技術の限界についても思い至りました.
これまで,科学技術の軸足は専ら進歩発展にあって,より速く,より高くといったオリンピックのような方向性を向いてきました.しかし,それを支えていたエネルギーの大量消費が,気候変動や砂漠化など環境負荷を増大させ,昨今の地球全体に危機的状況を発生させています.この問題の解決には,軸足の方向性の見直しが必要です.その点,医療技術は,生命健康の維持という意味で,異なる方向性を有しているので,有力な選択肢となるはずです.